大恐慌のボーナス・アーミーと日比谷公園派遣村
リンク先のWikipediaでは、第一次世界大戦の復員軍人たちがデモ行進をしたことが強調されてますが、そんなのは元気の良かった最初のうちだけで、帰る家もないのでワシントンD.C.の空き地に勝手にテントを張って住み着いただけなんですね。ボーナス支給の望みも断たれて、やって来てから1ヶ月以上も経っていますから元気もなくなって、帰る処のある人たちはすでに帰って数も減ってましたし。
そこにダグラス・マッカーサー指揮するパットン戦車隊が突っ込んで、幼� � �が犠牲になったり悲惨なことになったわけです。女子供も含めて平和に暮らしていた住居を武力で文字通り蹂躙したんですがら、デモ隊を制圧した天安門事件よりひどい。
背景としては、第一次世界大戦というのはアメリカは結構頑張ったのにヨーロッパには感謝もされずになんの見返りもなかった、大失敗だったというのが当時の一般のアメリカ人の評価で、アメリカは元の孤立主義に戻り戦争絶対反対の平和ボケになって復員軍人はベトナム復員兵並みに悲惨なあつかいを受けていたということがあります。
そんな人たちが大恐慌で生活を完全に破壊されて、どうしようもなくなって全米から首都に集まっていたわけです。まあ、いまの日本の派遣のみなさんと共通点を見つけようと思えばできるかもしれません。
日比� �� ��園のテント村がどういうことになるのか私は判りませんが、ボーナス・アーミーとはなんだったのかというのは興味があります。大恐慌あたりの歴史書には必ず出てくる重要な事件ですけど、歴史的にどういう意味があったのかというのはどうもよく判らず、私は何十年もずっと引っかかってきたのです。
フーヴァー大統領はあくまで威嚇をするだけで直接の武力行使は望んでいなかったのに、マッカーサーが突っ走ったために、フーヴァー政権の致命傷になったということはもちろんあります。でも、それだけなのか。Wikipediaも影響として復員兵援護法なんかが上げられているだけで、もっと大きな歴史のうねりにどういう役割を果たしたのかという処はどうもお茶をにごしてます。
このあたりのことをきっちり論じた日本語 に� ��ってる本とかご存じでしたらご教示をいただければ。
人間は愛から外れたとき
『怒りの葡萄』を読むと、全米にあったこの手の大恐慌で住む家を失った人たちのテント村では共産主義者が勢力を伸ばしていたことが判ります。しかしあくまで水面下の活動に終って表面化するほどの運動にさえならなかったのは何故なのか。
それをまた、フーヴァーやマッカーサーはどうしてあそこまで過剰反応したのか。実際に政権の危機に繋がったであろう天安門の弾圧のほうが、まだ判りやすいのですが。
はたまた、マッカーサーをクビにしろというところまで国民の怒りが湧き起こらなかったのは何故なのか。さらには、マッカーサーの日本統治にどういう影響があったのか。
考えてみることはいろいろあろうかと思います。
私は三十年� �争が欧州史を読み解く最大の鍵で、このボーナス・アーミーが米国史の最大の鍵だと常々思っていたりするのです。このふたつが判らないということは、結局のところヨーロッパもアメリカも理解したことにはならないんじゃないかと。
はてブなんかでもボーナス・アーミーに言及している人がいないのは不思議です。
『映像の世紀 第4集』に突入する可愛らしいパットン戦車隊が出てくるのでみなさん知ってると思うのですが。