2012年6月3日日曜日

Notebook: 大恐慌のボーナス・アーミーと日比谷公園派遣村:少年犯罪データベースドア



大恐慌のボーナス・アーミーと日比谷公園派遣村

日比谷公園の派遣を切られた人たちのテント村が、ベルリンの壁を崩したみたいだという年越し派遣村はピクニックであるという記事が多くのはてブを集めてるみたいですが、普通に考えて比較するなら大恐慌時のボーナス・アーミーでしょう。

リンク先のWikipediaでは、第一次世界大戦の復員軍人たちがデモ行進をしたことが強調されてますが、そんなのは元気の良かった最初のうちだけで、帰る家もないのでワシントンD.C.の空き地に勝手にテントを張って住み着いただけなんですね。ボーナス支給の望みも断たれて、やって来てから1ヶ月以上も経っていますから元気もなくなって、帰る処のある人たちはすでに帰って数も減ってましたし。
そこにダグラス・マッカーサー指揮するパットン戦車隊が突っ込んで、幼� � �が犠牲になったり悲惨なことになったわけです。女子供も含めて平和に暮らしていた住居を武力で文字通り蹂躙したんですがら、デモ隊を制圧した天安門事件よりひどい。
背景としては、第一次世界大戦というのはアメリカは結構頑張ったのにヨーロッパには感謝もされずになんの見返りもなかった、大失敗だったというのが当時の一般のアメリカ人の評価で、アメリカは元の孤立主義に戻り戦争絶対反対の平和ボケになって復員軍人はベトナム復員兵並みに悲惨なあつかいを受けていたということがあります。
そんな人たちが大恐慌で生活を完全に破壊されて、どうしようもなくなって全米から首都に集まっていたわけです。まあ、いまの日本の派遣のみなさんと共通点を見つけようと思えばできるかもしれません。

日比� �� ��園のテント村がどういうことになるのか私は判りませんが、ボーナス・アーミーとはなんだったのかというのは興味があります。大恐慌あたりの歴史書には必ず出てくる重要な事件ですけど、歴史的にどういう意味があったのかというのはどうもよく判らず、私は何十年もずっと引っかかってきたのです。
フーヴァー大統領はあくまで威嚇をするだけで直接の武力行使は望んでいなかったのに、マッカーサーが突っ走ったために、フーヴァー政権の致命傷になったということはもちろんあります。でも、それだけなのか。Wikipediaも影響として復員兵援護法なんかが上げられているだけで、もっと大きな歴史のうねりにどういう役割を果たしたのかという処はどうもお茶をにごしてます。
このあたりのことをきっちり論じた日本語 に� ��ってる本とかご存じでしたらご教示をいただければ。


人間は愛から外れたとき

『怒りの葡萄』を読むと、全米にあったこの手の大恐慌で住む家を失った人たちのテント村では共産主義者が勢力を伸ばしていたことが判ります。しかしあくまで水面下の活動に終って表面化するほどの運動にさえならなかったのは何故なのか。
それをまた、フーヴァーやマッカーサーはどうしてあそこまで過剰反応したのか。実際に政権の危機に繋がったであろう天安門の弾圧のほうが、まだ判りやすいのですが。
はたまた、マッカーサーをクビにしろというところまで国民の怒りが湧き起こらなかったのは何故なのか。さらには、マッカーサーの日本統治にどういう影響があったのか。
考えてみることはいろいろあろうかと思います。
私は三十年� �争が欧州史を読み解く最大の鍵で、このボーナス・アーミーが米国史の最大の鍵だと常々思っていたりするのです。このふたつが判らないということは、結局のところヨーロッパもアメリカも理解したことにはならないんじゃないかと。

はてブなんかでもボーナス・アーミーに言及している人がいないのは不思議です。
『映像の世紀 第4集』に突入する可愛らしいパットン戦車隊が出てくるのでみなさん知ってると思うのですが。

2012年6月2日土曜日

民主党 (アメリカ) - Wikipedia


民主党(みんしゅとう、Democratic Party)はアメリカ合衆国の政党。共和党と共に二大政党制を構成する政党である。2011年現在の与党。上院において多数派を占める。

その発足当初は対立する共和党が北部を中心とした近代産業の振興の立場を取るのに対して、民主党は南部を中心とした勢力を支持基盤に持ち、南部の農場主等の権益の擁護を中心としていた。

現在では一般的に対立する共和党が保守主義・新保守主義の立場を取るのに対して、民主党は一般的に中道からリベラルの立場を取る議員が所属する[1]。2006年11月の中間選挙で共和党に完勝したのも保守的な州における中道派の健闘によるところが大きい。

経済政策に関しては国内の製造業、貧困層や弱者、中小企業を救済するため、自由貿易主義を主張する共和党とはやや一線を画す国内産業保護主義を取る。それゆえ民主党政権では日本や中国との経済関係がしばしば問題になる。福祉施策に関しては共和党より積極的な議員が目立つものの、財政政策・金融政策に関しては共和党と大きな差はない。所得税増税やいわゆる大きな政府路線には共和党と同じく批判的な立場をとる。近年は共和党に比べ環境問題への取り組みに積極的な傾向が明確になってきており、京都議定書を推進していた民主党のアル・ゴア元副大統領は、環境問題に対する活動が評価され2007年のノーベル平和賞を受賞するなど話題になった。

外交関係では国際連合(国連)を重視し基本的には国際協調主義を取る。しかしコソボ空爆などの例がある様に先進国各国の協力・支援が取り付けられれば国連を無視した武力行使も辞さない。

中華人民共和国に対しては、議会を中心に保護貿易主義の傾向が強いので、対中貿易赤字には敏感である。下院議長ナンシー・ペロシなどを中心とするリベラル派が人権問題やチベット問題を非難するなど近年は中国の軍拡に批判的な姿勢を取るケースが増えつつある。このことから近年党内では対中強硬派が台頭している。比較的リベラルなカナダとの関係は良好である。中東問題に関しては、共和党と同様にイスラエル寄りのスタンスを示す党員が多い。

現在の主な支持層は東海岸・西海岸および五大湖周辺の大都市市民および、低所得者である。[2] 労組・労働者、さらにアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、アジア系(フィリピン系アメリカ人・華僑・日系アメリカ人・韓国系アメリカ人等)など人種的マイノリティである。またハリウッド映画産業関係者にも民主党支持者が多い。なお、このような支持層が常に民主党支持者であったわけではない。特に長らく共和党を支持していた宗教保守派は近年では民主党に接近を図っている。支持層の変遷については下記の歴史の項を参照。

民主党は1820年代に分裂したトーマス・ジェファーソンの民主共和派の流れを汲み、アンドリュー・ジャクソンを領袖に結党された「民主共和党」が前身である。1830年より現在の「民主党」を名称にしている。

民主党は、過去にはその支持勢力を北部と南部に分けて捉えることができる。北部では大都市の移民集団で、カトリック系やユダヤ系移民に支持される一方で、南部では奴隷制度廃止に反対し、1860年代には連邦を離脱してアメリカ南部連合を結成した白人層が支持層であった。彼らは南部11州で支持層を拡大して「一党南部」または「堅固な南部」と言われる強力な基盤を形成することになった。

大恐慌のさなかの1932年にはフランクリン・ルーズベルトがホワイトハウス入りを果たし、大恐慌で苦しむ都市労働者をはじめ、黒人、カトリック教徒、ユダヤ系市民、そして民主党の支持基盤である南部人らを結集したいわゆる「ニューディール連合」を形成することとなった。しかし多様な価値観を内包する党は、その後の公民権立法などの人種政策の実施過程において、南部白人層の離反(レーガン・デモクラット)を招くこととなる。また女性の権利をめぐる中絶論争で進歩的な政策を取ることから宗教的保守派などの離反も招いた。ここに二大政党制の再編成が起こり、民主党は窮地に追いやられることになったといわれている。その後もヒトES細胞の研究の可否、同性愛の諾否、同性間における結婚の諾否など、宗教的価値観� ��関連する問題で一般に進歩的な政策をとることから、宗教的保守派(但し、カトリックは除く)の支持は失っている。

1960年アメリカ合衆国大統領選挙では、初めてのローマ・カトリックのジョン・F・ケネディが選出した。

1992年の大統領選挙に出馬した中道寄りで経済志向のビル・クリントンが支持層を広げ、政権獲得に成功した。しかし、1994年の一期目の中間選挙から合衆国議会では共和党が多数を占めている。さらに2000年の大統領選挙で民主党は政権を失い、2004年の大統領選挙でも激戦の末に敗北するなど、現有議席数などから見た党勢は低迷した。

共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領の二期目の中間選挙である2006年11月の選挙では、ブッシュ政権および与党の共和党がイラク戦争問題や所属議員のスキャンダルで強い批判を受け、民主党が上下両院において多数派を奪還した。また、多くの州の知事選でも勝利を収めた。