♦絹。襖/世苓磧λ世一系の男系天皇(直系長子相続)とキリスト教徒ユダヤ人(女系相続)との死闘。1467年 =2 〜No.18
旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
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二つのブログを、五つに分けて建設する。
プロフィールに、五つのブログを立ち上げる。 ↗
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日本の天皇中心神話は、ギリシャ神話からメソポタミア神話や東南アジア諸神話そして揚子江流域神話など数多くの神話との共通点を持つ、雑種性の強い民族中心神話である。
閉鎖的日本神話からは、朝鮮(韓国)神話や黄河流域神話は排除されている。
高天原が朝鮮半島にあるはずがなく、あるという者は何も理解できない無知な馬鹿である。
天皇の重要な祭祀は、無私無欲で、国民が飢えることなく安寧に過ごせるように、祖先神と自然神に五穀豊穣の祈りを捧げる事である。
つまり、天皇の御稜威・大御心とは国を護り民族を守る事につきる。
農耕漁労の日本民族は、祭祀王の天皇を中心とした相互補完共生による隣保扶助の運命共同体を形成していただけに、世界中の農耕民族とは違って限られた農耕地をめぐる殺し合いは少なかった。
天皇神話による神道は、如何なる「血」も穢れとして忌み嫌った。
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第14代仲哀天皇(192〜200年。日本武尊の第二王子)皇后・神功皇后の、父は第9代開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)である。ただし、母方の祖先は朝鮮からの帰化人とされている。
夫の仲哀天皇と共に、大和朝廷に刃向かう北九州の豪族を討伐し、反大和勢力の後ろ盾となっている朝鮮諸王朝を懲らしめるべく軍隊を集結させた。
仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、妊娠(後の応神天皇)したまま海を渡って朝鮮半島に出兵した。
新羅は、倭国軍と戦わずして降服し、「倭国の犬」となり朝貢する事を誓った。
高句麗と百済も、倭国軍に敗れ、「倭国の犬」を誓って朝貢を約した。
世に伝わる、三韓征伐である。
神功皇后は、朝鮮王族の血筋ゆえに、朝鮮を征服し統治する権利がある。
朝鮮征討を成し遂げて帰国して、第4皇子応神天皇(270〜310)を生んだ。
大和で。香坂皇子や忍熊皇子が、神功皇后とその日嗣の御子(応神天皇)に対して反乱を起こした。
畿内の豪族達も、朝鮮の血を引く神功皇后に不満を持ち、大王家・皇室の血筋から朝鮮の血を排除する事を大義名分として反乱に参加した。
神功皇后は、武内宿禰や武振熊命の助けを借りて反乱を平定した。
敗れた豪族達は、神功皇后の呪術に恐れおののき、神功皇后を「祟る神・鬼」として敬い従った。
『日本書紀』では、201年から269年まで、摂政として政事を執り行なったとされている。
神功皇后は恐ろしい「祟る神・鬼」とされて、武内宿禰と共に住吉大社三大神の1柱(祭神)として、さらに応神天皇と供に宇佐八幡三神の1柱として、人々の信仰を集めている。
日本の信仰の一つに、祟りを起こして自分や家族や社会に災いをもたらす「怨霊・鬼」を信仰するという形態がある。
優れた天皇や皇族は、死後、霊力の強い世にも恐ろしい「祟り神・鬼」に変身すると信じられていた。
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第15代応神天皇14年(435年頃) 西域の弓月君の子孫とされた秦氏一族は、最先端技術を持った職人集団として日本に渡来し帰化した。
秦氏は、東方キリスト教一派であるネストリウス派(景教)の信者とされている。
中国では、景教を大秦教といい、キリスト教会を大秦寺と呼んでいた。
山城国(現在の京都)を本拠地として定着し、広隆寺を氏寺とし、伏見稲荷大社や松尾大社に氏神を祀った。そして。秦の始皇帝を大酒神社に、ダビデ王を大避神社に祀ったといわれた。
秦河勝は、第33代推古天皇(女帝)の御代に聖徳太子(第31代用明天皇の皇子)に仕えた。
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712年 第43代元明天皇(女帝) 『古事記』は、キリスト教の「父と子と精霊」という三位一体説と同じ、アメノミナカヌシとタカミムスビとカミムスビという原初三神あるいは造化三神の三柱の神、アマテラス(天皇家の祖先神)とツクヨミとスサノオの三貴子の神話を書き記した。
アマテラスは太陽である昼を、ツクヨミは月である夜を、スサノオは荒ぶる神として混沌を、それぞれ支配した。
720年 第44代元正天皇(女帝) 『日本書紀』は、ペルシャ人の吐火羅と舎衛が渡来して「善(光)と悪(闇)の戦い」という二元論を教義とするゾロアスター教(拝火教)を伝えたと記述している。
そして、第37代斉明天皇(女帝)は彼等を歓迎して盂蘭盆会を行ったと記している。
神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、これらを基にした天孫降臨神話で日本の正統な統治者とされている。
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736年 『続日本紀』「天平8年1月、聖武天皇は中臣朝名代に従五位下を授け、遣唐使の随員達の労をねぎらわれ、景人皇甫、波斯人李密医らに位を授け」
第45代聖武天皇の后光明皇后(藤原不比等の娘)は、景教からイエス・キリストの慈愛を教わり感動し、進んで病に苦しむ老人の腫れ物に口を付けて膿みを吸い出し、自らの手を汚し汗をかいて慈善活動を行った。
大家族主義における皇道の根本は、自己犠牲的な利他と他愛で、人と人の絆を大事にするやむにやまれない「慈愛の心」である。
この時までの古代神道や古代仏教において、他人を平等・公平に扱う慈善活動は存在しなかった。
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現代の天皇制度廃止論者は、民族の「絆」を持たないだけに、神の裔・天皇の神話と歴史と慈愛の心を完全否定する。
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ヨーロッパから日本に渡る航路は二つあった。一つは、ポルトガル王国・イエズス会が支配する、喜望峰・インド・日本にいたる東回りの航路である。もう一つは、スペイン王国・フランシスコ会が支配する、メキシコ経由の西回りの航路であった。
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日本史の偉人で人気投票をすると、ザビエルは必ずトップ10に入り、歴代天皇よりも愛され、聖徳太子(第31代用明天皇の皇子)と人気を二分していた。
一部の国際派日本人は、天皇を中心とした民族主義を否定する立場から、ザビエルを日本の偉人として上位にあげている。
少数ながら、古代史専門家や知識人の内で、聖徳太子の存在を否定する者や聖徳太子の偉業を否定する者がいる。
考古学者の多くは、神話にもとずく「神の裔」を否定し、天皇陵の学術的発掘と埋葬品の調査を希望している。彼等にとって、天皇の墓も藤原氏や徳川氏らの権力者の墓も同じ墓にすぎず、学術的興味のみを優先していた。
死者の墓を暴き、埋葬物を手にするのは、儒教価値観を信奉する東アジア世界では普通の事であった。
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キリスト教会は、ヨーロッパ世界では常識となっている「領主の信仰が、領民の信仰」の原則で、日本をキリスト教化しようとしていた。
表向きには、地元で影響力を有する異教集団との衝突を回避する為に、庶民に対して排他的な布教活動を控え、けっして信仰を強要しなかった。
裏では、領主に海外貿易で武器弾薬などの購入に便宜を図る見返りに布教活動の許可と保護を取り付け、主君の地位を脅かす可能性のある有力な武将を改宗させて着実に地盤を築いて行った。
各地の領主は、領地拡大の為に、火縄銃などの強力な武器を大量に購入すべく宣教師を受け入れ、布教に協力した。